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マルティン・チャンビは1891年、ペルー高原地帯の農村に生まれました。10歳のころ父親の働いていた金鉱山で写真に出会い、アンデス先住民の少年は写真という魔法に生涯を捧げることとなります。修行時代を経て、1920年にはインカ帝国の旧首都クスコにスタジオを構え、精力的な撮影活動に没頭。クスコ上流階級のポートレート撮影などで生計を立てるかたわら、市街の日常生活から冠婚葬祭、近郊の農村、そして発見されたばかりのインカ時代の遺跡マチュピチュへと、彼の視線は広がっていきました。ガラス乾板に3万点を超す作品を刻みましたが、1973年に没するまで生涯クスコを離れることはありませんでした。世界的巨匠である日本人画家フジタ=藤田嗣治も、1932年ペルーを旅した際にチャンビのスタジオを表敬訪問し、一緒に記念写真を残しています。先住民が同胞を記録した稀有な例としてだけでなく、光と構図に対する天才的な感性で写真史に名声を残しました。

その舞台となったクスコもまた、常に不思議な光に満たされた異次元空間でした。

チャンビのスタジオはサロンのように多くのアーティストたちが集い、腕を競う場となってきました。たとえばカブレラ兄弟の弟クリサントはチャンビのスタジオでアシスタントとして働きながら撮影や現像技術を学び、同世代のオラシオ・オチョアは同級生の父親であったホセ・ガブリエル・ゴンザレスに弟子入りし、同じスタジオで働くフィデル・モラが生涯のライバルになったり、といった具合でした。チャンビのスタジオも、もとは写真家で画家、俳優の三役をこなしたフィゲロア・アスナール所有の古い建物。チャンビがそれを引き継いで、数々の傑作を刻む場となってきた歴史があります。

和歌山県からペルーに移住した日本人移民ニシヤマ・オトマツ氏の次男エウロヒオは、12歳のころ画家フジタと出会い、それがきっかけで芸術に惹かれ写真家を目指しました。日系人の写真家として新聞など報道分野で活躍し、のちに映画撮影に世界を広げました。彼もまたクスコに生まれ、生涯クスコを愛したアーティストでした。南半球の標高3000メートルを超すアンデス高地にあるクスコは、成層圏の高みから降り注ぐ透明の光が踊る大地。チャンビと彼の仲間たちはこの光に魅せられ、想像力の限界に挑み続けてきたのでした。

今回の展示はフォトテカの作家たち、マルティン・チャンビ、エウロヒオ・ニシヤマの作品による3部構成になっています。それぞれミスティ(メスティーソ=白人と先住民の混血)、純粋の先住民、日系二世と出自が異なり、立ち位置や視線の違いが作品から立ち昇ってくるように感じられるでしょう。 

(白根 全)

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